防災・減災への指針 一人一話

2013年11月15日
災害時の町内会の役割と情報伝達の大切さ
前八幡上一区町内会防犯防災部長
岡田 祐一さん

震災直後の行動と地域の状況

(聞き手)
 震災直後の行動や出来事で、印象に残っている点があれば教えて頂けますか。

(岡田様)
私は、塩釜市の社会福祉協議会に嘱託として勤めていました。以前、塩釜市役所に勤めており、宮城県沖地震や水害など災害時の対応は経験していました。
今回の震災で、職場のある北浜地区は津波により大きな被害を受けましたが、事務所の建物は被害がなく、本棚が倒れた程度でした。
しかし、高い確率で起こるといわれていた宮城県沖地震が起きたので
はないかと思い、津波を心配し外に飛び出しました。
私たち事務所の職員は、社会福祉協議会が近くで運営しているディサービスセンターに駆け付けました。
ちょうど利用者さんが帰る準備をする時間で車に乗せて送迎する段取りをしていました。
そこで、「道路状況もわからないし津波が来るかもしれない、車で移動するのは非常に危険だ。」とお話しました、
既に1台か2台は出発した後でしたが、まだ25名ほどの利用者さんが残っていました。
その方たちを100メートルほど離れた事務所隣の市民センター2階の和室に避難させました。
その後、市の防災無線で大津波警報、10メートルの津波が来るという放送を聞き、2階でも危ないかもしれないというので3階に上がってもらいました。3階はホールで床が板張りでしたので2階の和室から畳を全部はがし、ホールに敷いて皆さんを収容しました。
夜を迎えてホールは冷え込み寒かったです。避難所でないので何もありませんでした。2階から布団を運びましたが足りないので、女性職員の方がストックしていたカーテン生地を毛布大ぐらいに切り、お年寄りの方に1枚ずつ配り、毛布代わりにと寒さ対策をしていました。
停電で電話も通じず、利用者さんの家族に連絡する事はもちろん、職員も家族の安否確認も出来ない状況でした。
その建物は古く、暖房設備もないので、石油ストーブを3台~4台探して暖を取りました。30分に1回位は大きい余震が来たので、そのたびにストーブを消したり、つけたりていました。
また、窓から仙台港の火災の炎が見えたので、はげましの声を掛け合いながら、職員とデイサービスの利用者であるお年寄りや近隣の方も含め50名ほどで不安な一夜を過ごしました。
翌朝、周辺の道路には流されて来た車や家屋、造船所の資材やがれきが散乱していました。津波の威力に驚かされました。北浜地区でも多くの方が津波の犠牲になりました。
自宅は八幡にあります。津波の被害が起きていると聞き、家族のことが心配で何回も電話しましたが、通じませんでした、夜になって妻からメールで母親と無事逃げたとの連絡があり、ひとまず一安心して、市民センターに泊まることが出来ました。
その頃、社会福祉協議会に勤め始めたばかりで、何もわからない状況でしたが、職場の皆さんと一緒に全員無事に避難することができました。
翌朝、家族の安否と、自宅と地域のことが気になったので、一旦自宅に帰りました。
道路状況が不安でしたので歩いて帰りました、途中、塩釜駅近くのスーパーの駐車場で食料品などを売っていたので、これからの事を考え、リンゴを20個ほど買いました。
地震の時、家には、妻と当時88歳の母親がおりました。
地震が収まって、外に出たら、防災無線は聞こえなかったが、隣近所の方に津波が来ると聞かされ、非常持ち出し用のリックひとつを持ち、母の手を引き、裏手にある末の松山の高台に避難したそうです。
その後は高台の友人の家で一晩お世話になったと聞きました。
後に息子夫婦とも連絡が取れ、息子は職場にいて、息子の嫁は仙台の泉の避難所に泊まり、翌日夕方歩いて帰って来たと言っていました。何より家族全員無事だったので安心しました。自宅は約1mの浸水被害を受けましたが、地域の皆さん方の津波被害は甚大でした。
災害時の市の指定避難所は、八幡公民館と八幡小学校、イオン多賀城店の3か所になっていますが、八幡小学校とイオンは避難所でありながら津波で浸水しました。
八幡公民館は高台にあり、浸水被害に遭わずに済みました。
八幡上一地区はもともと農家の方が多かった地域ですが、現在は住宅やアパート等が多く建ち、震災時、八幡上一区で570世帯、1,450人、八幡五区で2,200世帯、5,300人と多くの住人がいました。
私は翌日、地域の被災状況を把握しておかなければいけないと思い、町内を歩いて回りました。道路には流された車が折り重なりがれきが散乱し、まだ水も引いていない状況で、ほとんどの住宅が浸水しており悲惨な状況でした。
市の津波ハザードマップでは、仙台港の一部が津波浸水危険区域で、八幡地区は津波発生時の避難対象地域にはなっていませんでした。
津波が八幡まで来るというのは正直、住民の皆さんや市役所も含めて、ほとんど想定していなかったのではないでしょうか。

(聞き手)
宮城県沖地震と水害を経験されたそうですが、教訓は今回活かされましたか。

(岡田様)
自分の身は守ることは出来ても、やはり規模が大き過ぎて対応は不十分だったと思います。
昭和53年の宮城県沖地震の時は3日間帰れず、給水作業などに従事していました。ブロック塀が倒れ、屋根瓦が落ちたり、断水が続くなど、当時は大きな災害でした。
塩釜市や多賀城は、少し強い雨が降っただけで道路や床下が冠水することが多く起きていましたが、それに比べて今回の被害はすべての面において想定していなかったことだと思います。
私が見た限り、地震の被害は建物の破損などで人命に関わるほどではなく、むしろ津波による被害のほうが甚大で、それで亡くなられた方がほとんどでしょう。津波に対する認識が薄かったのではないでしょうか。
年配の方は昭和35年のチリ地震津波を経験しているでしょうが、ほとんどの方は津波に対して警戒心がなかったのかもしれません。
教訓というか、地震が来たら高台に避難するしかないと思っていましたので、先に述べたデイサービスセンターのお年寄りの人たちの避難については、役に立ったのかなと思います。

(聞き手)
チリ地震津波の当時の事は何か覚えていらっしゃいますか。

(岡田様)
記憶にあるのは、当時中学生で、友だちと塩釜の旧本塩釜駅前の船着き場へ行った時の事です。今回の震災で気仙沼や石巻の漁船が陸に上がった状況のように、大きい漁船が道路に乗り上げていたのが強く印象に残っています。

安否確認と情報の伝達手段

(聞き手)
津波の警報が出た時はどう行動したらいいのかというのは頭にありましたか。

(岡田様)
職場の塩釜市は海の近くでしたので、地震が発生して、津波注意報、警報が出ると、塩釜市役所の職員は直ちに海岸の防潮堤の門を閉めるという役割がありました。私は土木関係の職場でしたので、道路や公園、公共施設の被害調査や、浸水箇所、急傾斜地の調査などをしていました。
仕事としての経験が役立ったかどうかはわかりませんが、町内会の防災担当として、はじめは正直、なにをすべきかは浮かびませんでした。
八幡地区は仙台港とイオン多賀城店まで約1キロメートル、八幡公民館まで1.7キロメートルですので、私たちの住んでいる地域は海辺の街と同じです。仙台港は掘割で造った港で、掘った分だけ海が近くなった所です。ただ仙台港そのものが「海」という感覚がなく、多賀城に津波が来るとは市民の皆さんのほとんどが想像していなかったと思います。
しかし、これだけ大きな被害を受けたにも関わらず、まだ3年も経っていないのに、もう忘れかけてきているというのが危惧しているところです。
町内会では20年以内に80パーセントの確率で宮城県沖地震が起こるというのを意識し動いていました。八幡公民館の耐震改修工事を、町内会の皆さんの協力と市の補助により、平成22年夏に着工し、震災直前に完了して、避難所としての機能を果たすことができました。
町内会の防災担当になった時、自主防災組織を組織してほしいとの話があり、案を作りましたが、説明不足で組織できなかったというのが正直なところでした。
町内会の防災担当として、地図に避難場所や危険個所、消火栓の位置、水路などを調べて作成しました。サイズがA4で、家庭に配るとなると地図としては見づらかったと思うのですが、それでも一応、防災マップ形式のものを作り、町内会の全世帯に配布させていただきました。
その調査に基づいて、市と地元の消防団にお話し、消火栓の標識がサビついて見えない所や、劣化し壊れているものを交換して頂きました。また、消防署にお願いし火災訓練や、公民館で人工呼吸などの講習会を何度か実施しました。
八幡公民館は市の指定避難所なので、震災初日は多くの住民が避難して来ました。指定避難所といっても公民館なので狭く、他の避難所へ移られた方もいたそうです。
避難された方は地元の方より他の地域の方が多く、顔見知りの方は少なかったです。この地域の多く方は津波の被害を受けましたが、自宅二階等に避難し、公民館に避難された方は少なかったと思われます。
町内会として活動しなければならないという思いはありましたが、町内会の役員の皆さんも被災者されており、私自身、町内会役員として何から手を付けて良いのか分かりませんでした。
市の職員の方も初めての経験だったので、まず、避難所担当の職員の方と相談し、避難所運営のお手伝いをすることにしました。
地元で食堂をしている方が、市役所に行ってプロパンガスボンベと大きな鍋を公民館に運び、地元の赤十字の方や近隣の主婦の方々の協力をいただき、毎食汁物などを作って避難所に避難されている方をはじめ、近隣の被災者の皆さんにも声掛けし、温かいものを食べていただきました。
町内でも犠牲になられた方がおります、一人暮らしのお年寄りもいますので、市の職員の方に安否確認などしたのとか聞いたところ、今は、なかなかできずにいるということでした。
その後、全国各地の自治体、消防、自衛隊の方が救援活動に来てくださいました。多賀城では、水路や車の中で亡くなった犠牲者がたくさんおりましたので、個別に安否を確認して回る体制ではなかったと思います。
町内会が住民の安否確認と被災状況を見て回ることにしました。町内会の名簿は浸水で泥だらけになってしまったので、町内会長と私で、3月17日から一軒一軒訪問し、安否の確認をして、住民安否確認調査票を新たに作りました。
持ち家の方はほとんどの方が在宅し、復旧作業に取り組まれていました。アパートなどで被災された皆さんは避難している方が多く確認が取れませんでしたが、大家さんや近所の方に聞いて回りしました。この調査で町内の方々の安否と被災状況が把握できましたので、八幡上一区分の調査結果表を市に提出しました。
震災後数日ほど経つと、避難所に救援物資が届き始め、避難所に避難されていた人たちは食事なども取れて、避難生活ができる状態でした。 しかし被災し自宅で頑張っている方には救援の食糧などは届かず、すべて自分で都合しなければならない状況でした。
当時、公民館には町内会長と私、役員の3人しかおらず、救援物資を配布する体制が取れませんでした。ご老人がいる世帯を中心に配ったのですが、結局、全世帯の1割近くしか回せませんでした。
安否確認の訪問で一人暮らしの老人に、「どうして今頃になって救援物資が来たのか、一人で食べ物もなかったのに。」とお叱りを受けたこともありました。また体が不自由な方は、誰か知っている人でも来ない限り、何も手当てできないので、避難所担当の市職員に伝えて、対応してもらったということもありました。

避難所として機能した寺院

(聞き手)
 他の場所に避難していた方たちの行動はわかりますか。

(岡田様)
町内にはお寺さんが2つ、末の松山のすぐ下の寶国寺さんと公民館の隣の不磷寺さんがあります。それぞれ30~40人くらいの檀家の方や近所の方の避難所としての役割を担っていただきました。自前で食料などを確保していたそうです。お寺さんも被災されており、最初は市も把握しておらず、調査に行って初めてわかったので、市役所に申入れ、すぐに物資を届けてもらうように伝えました。
よく震災後に絆とか繋がりが生まれたと言われますが、各家を訪問して話を聞くと涙が出るようなことばかりでした。自分たちだけでも大変なのに泥だらけの自宅を片付けながら、奥さんが近所の方の手助けをしている方、自分たち家族の休む所も大変なのに近所の人達を引き受け食事や衣服、寝泊りまで一緒に過ごされている方、これは凄い事だと感心しました。
しかし、一人暮らしのお年寄りが頑張っている姿を見て、行政や町内会の役割は、初めての事態とはいえ、非常に不十分だったと感じています。
私は職場も大変でしたが、3月末まで休ませてもらい、毎日公民館に行き、避難所の手伝いと町内会の活動をしていました。
他の八幡地区の区長さんたちも集まり、市の職員と毎朝9時に避難所で打ち合わせをして情報の収集や伝達が出来たことが、大いに役立ったと思っています。
毎日、市の方から市内の被災状況や救援状況、電気や水道などのライフラインの復旧予定、病院の開設状況、ゴミの収集などについての報告を受け、区長さん側から地域の被害実情や要望などをお伝えするという事をしていました。
本来であれば、町内の皆さんに、情報を書面にして伝えなければならないのですが、停電や体制が取れなかったので、全世帯にお知らせする事が出来ませんでした。人に会うたびに、給水車が来る時間やゴミの収集、救援物資のお知らせをし、近所の方に伝達してもらうようにしていました。情報を求めている被災者の皆さんに知らせる手だてが何もなかったというのが一番辛かったです。

情報伝達の課題

(聞き手)
話し合いをしようというのは、どなたが提案されたのでしょうか。

(岡田様)
八幡下二区の区長さんが八幡五区のまとめ役をしていました。それぞれの区長さんも被災されていましたが、八幡地区の被災状況を共有し、住民の要望などを市当局に伝え、地域に伝達する場として、避難所である公民館に集まりました。
公民館が八幡地区の給水場所だったのですが様々な問題もありました、近辺の方は給水車が来てから給水を受けられますが、遠くから10分も20分も掛かって公民館に来た方に給水車の水がなくなってしまう事も度々ありました。
八幡上一区、二区と八幡下一区、下二区の大部分の人たちが、1か所の給水所に集まるので、世帯数から比しても水が足りない状況でした。  
また給水車が何時に来るかもわからないので、朝早くからお年寄りの方々がポリタンクややかんなどを持って並び始めており、台数や給水場所を増やしてほしいとの要望が出されました。
市に給水車と給水場所の増設の申し入れ、地区の消防団第5分団にお願いし、給水車の到着時間を消防車のスピーカーで遠くの地域から案内して頂きました。
この地域には末の松山浄水場があります。「どうして浄水場があり給水車がひっきりなしに通るのに私たちの所には来ないのか」と住民の方に詰め寄られたこともありました。市全域の給水作業の車がこの浄水場に来て水を運んでいくのですが、地元に供給してもらえないという悔しい思いがありました。

(聞き手)
その後、給水箇所の増設などはありましたか。

(岡田様)
最初のころは給水車両が少なかったのですが、その後、全国各地から応援部隊が来てからは、給水箇所を増やしてもらいました。

各種災害に対応できる避難所の見直し

(聞き手)
 当時の対応でうまくいった事、うまくいかなかった事は何でしょうか。

(岡田様)
 大震災の教訓から、住民の生命、財産を守ることが自治体の第一義的な役割だと再認識しました。
 当時の対応について、町内会の役割や活動については、前に述べたように、組織として機能できなかったと思います。
早く自主防災組織を確立して、行政と協働しながら、避難訓練や災害時の活動に参加してもらうことが大事だと思っています。
 今回、八幡五区の区長さんや役員さんが協力して、情報収集や住民要望などを取りまとめて、行政に伝えたことは大事なことだと感じています。
 復旧・復興事業が始まってきています。
ハードな事業は目立ちますが、まず被災された住民の生活再建が優先されるべきです。
 また、役割を果たせなかった防災無線も新たに復旧しましたが、数カ所のスピーカーが反響し聞きづらいので改善していただきたいと思います。避難経路の案内標識などの設置の要望も出されています。
 避難所の設定も見直す必要があるでしょう。
今回の震災でイオン多賀城店と八幡小学校は津波による浸水で孤立しました。避難所で犠牲者が出た自治体が数多くありました。水害や津波などの災害を想定し、避難所の見直しが必要ではないでしょうか。

「危機感」という備え

(聞き手)
教訓として、今回の経験を通して、地区の次の役員の方に伝えていきたいことは何かありますか。

(岡田様)
市主催の防災の講習会がありますが、町内会単位での防災講習会などの開催に取り組み、そのような機会に経験を伝えて風化しないようにすることが必要と感じています。
津波はあと千年は来ないだろう、生きている間は大丈夫だと思っている人がいますが、そのような考えが一番怖いです。宮城県沖地震はまだ来ていません。明日震災が起きるかもしれないという危機感防災意識を持ってもらいたいものです。
市では防災に関するシンポジウムを開催していくようですが、長いスタンスで見れば、大人だけでなく、子どもたちにも学校教育の中で防災訓練や震災の記録など、将来に向けた話をしていく方がいいのではないかと思います。

(聞き手)
 多賀城市の、今後の復旧・復興に向けての意見はございますか。

(岡田様)
多賀城の場合は沿岸部のように高い防潮堤を作るとかではなく、基本的に「減災」という考えに基づき、津波が来た時は何段階かに分けて勢いを減らして、その間に逃げるという考えなのだそうです。
現在の復興は、公共事業が中心なのではないでしょうか。
復興という名前がつけば何でも出来るということが、被災地の各自治体で進んでいるようです。
市の復興計画で出されたのが避難道路の整備です。
これまでは事業の目処すら立っていなかった路線が震災を機に事業着手することになりました。避難道路も大事ですが、優先順位が少し違うのではないかと感じています。
また、地盤が沈下している影響か、今まで台風でも浸水しなかった道路などが、冠水するようになっているのが気になります、全体的に地盤沈下しており、下水道計画や排水計画も見直す必要があるのではないでしょうか。被害があれば下水道の補修や整備、水路の改修などをしていかなければなりません。
被災者支援制度はまだまだ不十分です。体力のない人やお年寄り世帯、所得が少ない世帯など、家を再建できる人ばかりではないので、災害公営住宅の建設を急ぎ、一日も早く震災前の生活に戻れるのが復興だと思っています。自治体は被災者の方々に寄り添い、色々な面で直接サポートしてほしいと思います。
震災から3年を迎えようとしていますが、市内は復興が進んでいるように見えますが、多くの被災者の皆さんがまだ仮設住宅や借り上げ住宅で不自由な生活を強いられています。
まだ復興は緒についたばかりです、この事を忘れないでほしいと思っています。

震災の記録を後世に残すこと

(聞き手)
 その他、伝えておきたい事はありますか。

(岡田様)
今回の震災で避難所運営の担当者をはじめ、市職員の方や災害派遣で救援活動に来られた皆さん、全国の自治体から応援に来られた自治体職員の皆さん、それにボランティアで駆けつけていただいた多くの皆さん方、本当に一生懸命働いてくださったと感じています。私も被災者の一人としてお世話になりました。
八幡地区の震災記録を残そうと八幡地区東日本大震災の概要を作りました。県や市の記録はマスメディアで色々な形で情報収集できますが、自分の住んでいた身近な地域の状況がどうだったかというのは、自分自身も割と忘れてしまいます。
次の世代に八幡でもこのような被害を受けたことを記録として残したいと思いました。市からデータを頂き、町内会長さんや他の区長さんにも相談し賛同して頂き、八幡五区の震災の概要として作りました。
関係機関と全世帯に配れるぐらい作りたかったのですが、震災後は町内会員も一気に減少して予算も足りなかったので、必要な方はコピーしてくださいという事にしました。
今後、地域の人たちに参考にして頂いて、少しでも防災のお役に立てばと思います。